スカルノ大統領の妻は何人?デヴィ夫人と歴代妻の真実と子供の現在
インドネシア建国の父として今なお国民的カリスマを誇る初代大統領、スカルノ氏。日本のテレビ界で圧倒的な存在感を放ち続けるデヴィ夫人(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)の夫としても広く知られていますが、その華やかな女性遍歴と激動の宮廷ドラマは、単なるゴシップの域を超えて近現代アジアの政治史そのものと深く結びついています。
イスラムの戒律や激動の国際情勢のなかで、大統領を支えた妻たちは何人存在し、どのような関係性だったのでしょうか。第3夫人であるデヴィ夫人との出会いの舞台裏から、大統領の失脚を招いた軍事クーデター、遺産相続の真実、そして現代の政財界を動かす子供たちの家系図まで、知られざるドラマを紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:スカルノ大統領が生涯で正式に婚姻した妻は合計9人であり、イスラム法に則り同時に最大4人の夫人を娶る一夫多妻の婚姻関係を結んでいた。
- 要点2:デヴィ夫人は正妻(第3夫人)として寵愛を受け、政変「9・30事件」の混乱期には特使外交や過酷な亡命生活を乗り越えて自立した財を築いた。
- 要点3:子供たちの中からは第5代大統領メガワティや社会活動家として国際的に活躍するカリナ(キランの母)など、多彩な後継者たちが現代に血統を受け継いでいる。
【一覧で解説】スカルノ大統領の妻は何人いたのか?歴代9人の婚姻関係
スカルノ大統領の生涯において、公式記録や信頼性の高い歴史資料で確認されている妻は合計9人です。イスラム法が認める「同時に4人までの妻」という規定のもと、離婚と再婚を重ねながら宮廷内に複数の夫人を迎え入れました。
独立運動の闘士として投獄や流刑を繰り返していた青年期から、国家元首として権力の絶頂を極めた壮年期に至るまで、スカルノ氏の傍らには常に強い個性と魅力を持つ女性たちの存在がありました。
歴代の妻たちを時系列で整理すると、以下の通りです。
【スカルノ大統領 歴代妻一覧】
1. シティ・オエタリ(1921年結婚/1923年離婚):恩師の娘であり、政治運動の初期に結ばれた形式的な結婚。
2. インギット・ガルナシ(1923年結婚/1942年離婚):13歳年上の姉女房で、投獄・流刑時代の下積み生活を経済的・精神的に支え抜いた恩人。
3. ファトマワティ(1943年結婚/1956年別居、1980年没):初代ファーストレディ。インドネシア国旗を縫い上げた「建国の母」。
4. ハルティニ(1953年結婚/2002年没):ボゴール宮殿で実質的な家庭内を取り仕切り、晩年まで忠誠を尽くした第2夫人。
5. サキコ(金瀬咲子)(1958年結婚/1959年自死):デヴィ夫人の前に嫁いだとされる日本人女性。
6. ラトナ・サリ・デヴィ(根本七保子)(1959年交際開始、1962年正式結婚):国際的な社交界で名を馳せた第3夫人。
7. ハリヤティ(1963年結婚/1966年離婚):大統領府の事務官・舞踊家出身の第4夫人。
8. ユリケ・サンガー(1964年結婚/1968年離婚):高校生パレード隊員から見初められた若き夫人。
9. ヘルディ・ジャファル(1966年結婚/1969年離婚):大統領失脚の混乱期に結ばれた最後の妻。
第1夫人ファトマワティから第3夫人デヴィ夫人まで|立場の違いと愛憎劇
スカルノ大統領の婚姻関係を語る上で極めて重要なのが、「正妻(第1〜第4夫人)」としての公式序列と役割の違いです。特に大統領としての全盛期には、妻たちの立場を巡って激しい人間模様が繰り広げられました。
国家独立の象徴として国民から絶大な敬愛を受けていたのが、第1夫人であるファトマワティ夫人です。彼女は独立宣言時に掲げられた赤と白の国旗「サン・サカ・メラ・プティ」を手縫いした人物であり、スカルノ氏との間に5人の子をもうけました。しかし、1953年にスカルノ氏が未亡人だったハルティニ夫人を第2夫人として迎え入れたことに激怒。一夫多妻制に抗議して大統領官邸を退去し、別居生活を選びました。
ファトマワティ夫人が公の場から身を引いた後、国内の行事や宮殿の日常を支えたのが第2夫人のハルティニ氏です。一方、1962年に正式入籍したデヴィ夫人は「第3夫人」の地位に就きました。東洋の真珠と称えられた美貌と卓越した外交センスを持っていたデヴィ夫人は、主に海外要人の接遇や国際親善外交を担うファーストレディとして重用され、他の夫人たちとは明確に異なる役割を果たしました。
その後、大統領は第4夫人としてハリヤティ氏を迎えましたが、わずか数年で破局。寵愛の深さと国際的な影響力において、デヴィ夫人の存在感は宮廷内で際立っていました。
デヴィ夫人との出会いと日本人妻の秘史|赤坂の夜から大統領宮殿へ
スカルノ大統領とデヴィ夫人(旧名:根本七保子)の劇的な出会いは、1959年6月の東京にさかのぼります。当時国賓として来日していた大統領が、赤坂の老舗高級クラブ「コパカバーナ」を訪れた際、当時19歳だった七保子さんの類まれな美しさと知性に一目惚れしたことがすべての始まりでした。
同年秋、大統領の熱烈な招きを受けて単身ジャカルタへ渡った七保子さんは、大統領宮殿近くに建設された私邸「ヤソ宮殿(現・国軍歴史博物館)」で暮らし始めます。1962年には正式にイスラム教へ改宗し、「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(宝石の聖なる女神)」という高貴な名を授かり、正式な大統領夫人となりました。
一方で、スカルノ大統領の「日本人妻」を巡っては悲劇的な歴史も残されています。デヴィ夫人が渡航する直前の1959年秋、大統領の愛人・事実上の妻として先行してジャカルタに滞在していた日本人女性・金瀬咲子(サキコ)さんが、現地で自ら命を絶つという痛ましい事件が発生しました。日本の大手商社や政財界が戦後賠償ビジネスを巡って暗躍していた時代背景もあり、大統領宮殿を取り巻く人間関係は常に国家間の思惑と緊張感に満ちていたのです。
9・30事件と大統領の失脚|亡命劇の真相とスカルノの死因
平穏な宮廷生活は、1965年に起きた「9・30事件」によって一変します。軍内部の共産党系将校によるクーデター未遂を発端に、スハルト陸軍戦略予備司令官が実権を掌握。親共産圏寄りだったスカルノ大統領は急速に政治的権力を奪われていきました。
身の危険が迫る中、当時スカルノ氏の子を身ごもっていたデヴィ夫人は、大統領の計らいにより日本へ脱出。1967年3月に東京の病院で長女を出産した後、政変の嵐を逃れてフランス・パリへと亡命しました。パリの社交界に身を置いたデヴィ夫人は、国際世論へ夫の無実と解放を訴え続けました。
一方、大統領の座を追われたスカルノ氏は、かつてデヴィ夫人に贈ったヤソ宮殿などに軟禁され、十分な医療処置を受けられないまま急速に健康を悪化させます。そして1970年6月21日、慢性腎不全の悪化により69歳で波乱の生涯を閉じました。デヴィ夫人は危険を顧みず臨終の床へ駆けつけ、変わり果てた元大統領との悲痛な別れを果たしています。
遺産相続の真相|「莫大な遺産」の噂とデヴィ夫人の自立
スカルノ元大統領の死後、国際社会やマスコミの間では「スイス銀行に眠る数兆円規模の隠し財産」や「莫大な遺産の行方」がセンセーショナルに報じられました。しかし、調査によって判明した現実は全く異なるものでした。
失脚に伴い、大統領個人名義の資産や宮殿はスハルト政権によって国家接収・凍結され、残された一族に分配される公式な遺産はほとんど存在しませんでした。デヴィ夫人自身も後年の手記や取材において、大統領からの金銭的遺産相続は皆無に等しかった事実を明言しています。
大統領夫人という肩書を失い、異国の地でシングルマザーとなったデヴィ夫人は、自らの知脈と類まれな才覚で人生を切り開いていきました。石油・エネルギー関連のコンサルティング事業や貿易ビジネスを手がけ、ヨーロッパ社交界でのステータスを確立。自らの力で独立した資産基盤を築き上げたのです。
スカルノ大統領の子供と家系図|大統領になった娘メガワティとカリナ・スカルノの現在
スカルノ大統領は歴代の妻たちとの間に合計8男10女(諸説あり)の子供をもうけました。その血筋はインドネシアの政界から国際的な慈善活動まで、多彩な分野で強烈な存在感を放っています。
【スカルノ大統領の主な子供たちと家系図】
- ファトマワティ夫人との子供:
- グントゥール・スカルノプトラ(長男):政界とは一線を画しつつも一族の象徴的存在。
- メガワティ・スカルノプトリ(長女):第5代インドネシア大統領(在任2001〜2004年)。闘争民主党(PDI-P)党首として現在も国家最高権力層に君臨。
- ラフマワティ/スクマワティ/グルー:政治家、芸術家、振付師としてインドネシア文化・政界に多大な影響力を持つ。
- ハルティニ夫人との子供:
- タウファン/バユ:実業分野などで活動。
- デヴィ夫人との子供:
- カルティカ・サリ・デヴィ・スカルノ(通称:カリナ)(娘):1967年生まれ。国際金融界で活躍したフリッツ・シーガース氏(故人)と結婚。長男キラン氏を出産。現在は「カルティカ・スカルノ財団」代表として、インドネシアの子供たちの教育・医療支援に尽力。
現在、妻たちの多く(ファトマワティ氏、インギット氏、ハルティニ氏、ヘルディ氏など)は他界しています。デヴィ夫人は現在も現役でメディア・社会貢献の第一線を走り続けており、その娘カリナ氏と孫のキラン氏もまた、気品と国際性を備えたスカルノ家の末裔として世界から熱い視線を集めています。
【スカルノ大統領の妻】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人はスカルノ大統領にとって何番目の妻だったのですか?
A1:正式な入籍順位としては第3夫人です。大統領は当時、第1夫人ファトマワティ氏、第2夫人ハルティニ氏を娶っており、デヴィ夫人は3人目の正妻(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)として迎えられました。
Q2:スカルノ大統領の妻たちは現在どうしていますか?存命の方はいますか?
A2:歴代の妻たちの多くはすでに逝去されています。デヴィ夫人は現在も日本および世界各地で元気に活動を続けており、スカルノ大統領の激動期を直接知る歴史の証言者としても極めて貴重な存在です。
Q3:大統領の死因は何だったのですか?暗殺の噂は本当ですか?
A3:公式な死因は重度の慢性腎不全です。ただし、スハルト政権による軟禁下で適切な投薬や専門治療が著しく制限されていたため、実質的な医療放置による衰弱死であったとして、現代でも歴史的批判がなされています。
Q4:スカルノ大統領の子供は何人いて、現在どのような活動をしていますか?
A4:記録上、少なくとも18人以上の子供が確認されています。代表格として長女メガワティ氏が女性初の大統領を務め政界の重鎮となっているほか、デヴィ夫人の娘であるカリナ氏は財団を運営し、母国インドネシアの福祉支援に尽力しています。
まとめ:激動のインドネシア近現代史を彩った妻たちの軌跡
スカルノ大統領の華やかな結婚遍歴は、単なる私生活の記録ではなく、国家独立、東西冷戦のパワーゲーム、そして宮廷内の権力闘争が複雑に絡み合った歴史ドラマそのものでした。
建国の象徴として敬われたファトマワティ夫人、家庭を守り抜いたハルティニ夫人、そして異国の地から飛び込み外交の華として激動を生き抜いたデヴィ夫人。それぞれの妻たちが背負った数奇な宿命と誇りは、メガワティ氏やカリナ氏ら次世代へと脈々と受け継がれ、今なおインドネシアの歴史に鮮烈な光を投げかけています。 (出典: スカルノ 大統領 妻(Yahoo!ニュース))